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詳細
作品ID | 108 |
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作家名 | アンドレ・ドラン |
作品名 | 「メタモルフォーズ」より |
分類 | U55N46S26 |
技法 | リトグラフ |
サイン | 本人サイン |
制作年 | 1927年 |
作成枚数 | 100 |
額サイズcm(縦×横) | 56×68 |
額装コンディション | A |
作品コンディション | B |
所蔵美術館など
パリ市立近代美術館、ボストン美術館、オランジュリー美術館、リヨン美術館、ノートン美術館、メトロポリタン美術館、グルノーブル美術館、ヒューストン美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー、ニューヨーク近代美術館、ポーラ美術館、メナード美術館、ひろしま美術館、国立西洋美術館、その他の美術館
略歴
* | 1880年 パリ近郊のシャトゥーに生まれる。 1895年 父ジャコミンの友人だった画家のポール・セザンヌの影響で独学で絵を描き始める。 1898年 カミッロ大学で工学を学んでいるとき、象徴主義の画家ウジェーヌ・カリエールのアトリエで絵画を学ぶ。画家アンリ・マティスと出会う。 1900年 アンリ・マティスやモーリス・ド・ヴラマンクと共同アトリエを借りて制作を行い、近隣の風景画を描きはじめる。 1901年 兵役のため絵画を数年中断する。 1904年 絵画制作を再開。絵画に専念にするため両親を説得し、エンジニアの職に就くのはあきらめ、その後、アカデミア・ジュリアンに入学して本格的に美術を学び始める。 1905年 アンリ・マティスの紹介で有力画商のアンブロワーズ・ヴォラールと契約し、サロン・デ・ザンデパンダン展に初出品。アンリ・マティスと共に地中海に面した村コリウールにアトリエを借りて共同で制作を始める。 1906年 画商ヴォラールが都市をテーマにした絵画シリーズの制作のため、ドランをロンドンへ招待。 そこでテムズ川沿いの風景を描き、ロンドンの風景画を描き始める。この時期の代表作品は、 『チャンリグクロス橋』である。 1907年 サロン・ドートンヌでのセザンヌ回顧展をきっかけに厳格な構成による作風へと向かい、やがてキュビスム(立体派)へと展開した。画商のカーンワイラーはドランの制作を支援するためスタジオを購入。石彫刻の実験を始め、友人パブロ・ピカソが住む近くのモンマルトルへ移る。ピカソの恋人のフェルナンド・オリヴィエや「洗濯船」の芸術家たちと交流を始めるようになる。 1909年 詩人ギヨーム・アポリネールの最初の詩集「腐ってゆく魔術師」の挿絵用に木版画を制作。 1910年 ミュンヘンのミュンヘン新芸術家協会で展示される。 1912年 青騎士の分離派での展示される。マックス・ジャコブの詩集の挿絵も描いている。 1913年 ニューヨークのアーモリー・ショーなどで展示される。 1914年 第一次世界大戦が勃発すると、軍に従事。 1916年 画商ポール・ギョームにより個展を開催。詩人アンドレ・ブルトンの最初の本「モン・ド・ピエテ」の挿絵を描いている。 1919年 バレエ・リュス(バレエ団)のバレエ劇「風変わりな店」で衣装や舞台装飾を手がけて大成功。その後、多くのバレエ関連の仕事を手がける。 1921年 イタリア旅行を機に作風はアカデミックなものに回帰し、古典的な陰影や遠近法、落ち着いた色彩で静物、人物等を描くようになる。また、フォヴィスム(野獣派)の色彩とキュビスム(立体派)の形態を取り入れた独自の画風を築いた。 1928年 カーネギー賞を受賞。『死のゲームの静物』を制作。 ロンドン、ベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフ、ニューヨーク、シンシナティなどで展示され、海外で高い評価を得る。この頃がドランの絶頂期といえる。 1935年 パリ西部シャンブールシに居を構え、画壇からはなれて制作を始める。 1940年 第二次世界大戦が勃発してフランスにドイツ軍を侵入すると、ドイツ軍に法定にかけられる。(彼はフランス文化の権威として賞賛されていたため) 1941年 ドイツに公で訪れ、ナチの彫刻家アルノ・ブレーカーのナチ展に出席し、ナチスに協力するようになる。ドイツにおけるドランの存在は、ナチスの宣伝に効果的に利用されることになり、戦後は親ナチスとしての以前の支持者たちから追求を受けることになった。 1953年 目の感染症を患い、回復することなく視力を失う。 1954年 フランスのセーヌ川沿いの町ガルチェで自動車事故により死去。 |
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