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詳細

作品ID61
作家名アルフォンス・ミュシャ
作品名黄昏
分類U48N64S36
技法リトグラフ(エスタンプ)
サインサイン(財団)
制作年
作成枚数
額サイズcm(縦×横)77×118
額装コンディション新品
作品コンディションA


所蔵美術館など

サンフランシスコ近代美術館、リュクサンブール美術館、ヒューストン美術館、オルセー美術館、バージニア美術館、ブレーハン美術館、ボルチモア美術館、オーストラリア国立美術館、プラハ国立美術館、境アルフォンス・ミュシャ館、東京国立新美術館、その他の美術館



略歴

*1860年   チェコ共和国東部イヴァンチツェに生まれる。
1871年   聖ペテロ教会の聖歌隊員となり、その奨学金でブルノの中学に通う。
1873年   夏休みに合唱隊の聖歌集雑誌「モテツト」の表紙を描く。
1874年   声変わりにより聖歌隊を退団。奨学金も打ち切られ中学を除籍。
父の手引きで裁判所の書記の仕事に就きつつ、デッサンに励む。
1879年   舞台装置等を作っている工房で働きながらデッサン学校に通う。
1881年   働いていた劇場の焼失で職を失い、ウィーンを去りチェコ、ミクロフに移る。フリーランスで装飾芸術や肖像画を描いて生活。
1882年   ミクロフの名士たちの肖像画を描いて生計を立てる。
1883年   クーエン・ベラン伯爵と出会い、フレスコ画制作の依頼を受ける。以降、伯爵と弟のエゴン伯爵がパトロンとなり援助を受ける。
1884年   エゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業する。
1887年   パリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学。
1889年   クーエン伯爵の自殺により援助を打ち切られる。
1891年   ゴーギャンや劇作家・小説家ストリンドペリと出会い、挿絵を描く。
1893年   旧知のゴーギャンと再会、アトリエを共有。
1894年   舞台女優サラ・ベルナール主演の舞台ポスター『ジスモンダ』制作。パリ・サロン・オブ・アーティストで展示され、初めて公的な名誉勲章を授章。
1895年   サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。
1896年   サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレックらと共に出品。
この年に制作されたJOB社の『煙草』のポスターは大変人気があった。
1900年   パリ万国博覧会のボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。
1901年   レジオン・ドヌール勲章を受章。装飾資料集を刊行。
1904年   アメリカに招待され、上流階級の注文肖像画を描いた。
1906年   プラハにてマリア・シティロヴァと婚礼を挙げ、アメリカに渡る。
1910年   故国チェコに帰国し、連作『スラヴ叙事詩』の制作を開始する。
1918年   オーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキアが成立。新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを担当。
1928年   チェコスロバキア独立10周年記念として、1926年に完成した『スラブ叙事詩』シリーズ全20点をプラハ市長に寄贈。
1931年   聖ヴィート大聖堂のステンド・グラスをデザイン制作。
1939年   ナチス・ドイツによってチェコスロバキアは解体。ドイツ軍は「ミュシャの絵画はチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由でミュシャを逮捕。すぐに釈放されたものの、4ヶ月後に肺炎を患い、プラハにて死去。