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詳細

作品ID96
作家名レオナルド・ダ・ヴィンチ
作品名岩窟の聖母
分類U15N15S9
技法コロタイプ
サイン無し
制作年1860年
作成枚数
額サイズcm(縦×横)84×61
額装コンディションA
作品コンディションA


所蔵美術館など

エルミタージュ美術館、アンブロジアーナ図書館、ルーヴル美術館、ヴァチカン宮殿、チャルトリスキ美術館、ウフィツィ美術館、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院、アカデミア美術館、ウィンザー城、パルマ国立美術館、レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館、その他の美術館



略歴

*1452年   イタリアのアンキアーノ村に生まれる。
1471年   彫刻家ヴェロッキオの工房でフィレンツェ大聖堂に直径2.4mの球体を制作・設置する仕事に関わる。
1472年   画家組合であるサン・ルーカ同心会に登録される。
1481年   サン・ドナート・スコペート修道院から『東方三博士の礼拝』の依頼を受ける。
1482年   エンジニア、建築家、宮廷での舞踏会のデザイナーや彫刻家として活動するため、ミラノ公イル・モーロに仕える。自分の工房を開く。
1489年   ミラノ公イル・モーロから『スフォルツァの騎馬像』の制作要請を受ける。
1490年   ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの結婚祝宴で演劇を演出。
1494年   ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァが『最後の晩餐』を依頼。
1496年   数学者ルカ・パチョーリとの共同執筆を開始。図形の挿絵を描く。
1498年   スフォルツァ城で開催された公開討論会にパチョーリと共に出席。
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれている『最後の晩餐』が完成。
1499年   第二次イタリア戦争でフランス軍がミラノを占領し、パトロンであったミラノ公イル・モーロは敗走。
1500年   弟子サライ、友人のルカ・パチョーリと共にミラノを発ち、フィレンツェへ。
1502年   教皇軍総指揮官チェーザレのもとで軍事顧問兼技術者として働く。
1503年   フィレンツェ政庁からパラッツォ・ヴェロッキオ「五百人広間」の壁画制作をミケランジェロとともに依頼される。
1506年   フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズの招聘でミラノに戻る。
1507年   最愛の弟子となるフランチェスコ・メルツィが入門する。彼とはダ・ヴィンチが亡くなるまで親交。
1508年   出版をめざして手稿の整理を開始。解剖学の研究を進める。
1513年   イタリア・フィレンツェ共和国の政治家であるジュリアーノ・デ・メディチの支援でローマのベルヴェデール宮殿に住む。
1515年   フランソワ1世の即位の際、フランス王とローマ教皇レオ10世の和平交渉の結決訳に任命される。
1516年   フランソワ1世の招きによりフランスへと移住。アンボワーズ城近くのクルーの館に住まわせ、この環境のおかげで、絵画制作や研究に没頭。
1519年   遺言書を作成。フランス中部の街アンボワーズのクルーの館で死去。